「土砂ひきく(低く)大河流れて水災多し」。これは「筑前国続風土記」に書かれた遠賀川の特徴です。
海と中流部を比べても高さにそれほど差がない土地に遠賀川という「大河」が流れ、少し雨が降るとすぐ水害になってしまう、という意味です。
こうした遠賀川流域を豊かな穀倉地帯に変えようとしたのが黒田長政です。
長政は「新しい運河を掘って遠賀川の水を洞の海(洞海湾)に導けば洪水も少なくなり、運河周辺の田にも水がいって米の収穫量も増える。
船で物を運ぶにしても便利になるに違いない」と考えました。
そこで、1621(元和7)年家老の栗山大膳に中間から岩瀬、吉田、折尾を通る水路の工事を命じました。
これが堀川工事の始まりです。
堀川は「運河」という意味です。
それがいつからか元々の名のように呼ばれるようになったのです。
堀川の工事は長政が亡くなり、大善も黒田藩を去って中止されました。
水路が「大膳堀」として残るのみでした。
大善は領民に慕われたらしく大膳町や大膳橋にその名を残しています。
さて、「遠賀川の工事を仕上げよ」という長政の遺言が実行に移されたのが六代藩主・継高のときです。
継高は橋又之進に命じて一帯の調査を始めました
問題になったのが大膳堀あたりの地質です。
せっかく掘った水路が一晩のうちに元通りに埋まってしまうため、農民の間では貴船神社のたたりだ、という声もあがりました。
そこでコースを西寄りに変え「吉田の車返し」という山間を切り抜くことにしたのです。
このあたりは車返しというくらいですから険しいうえに、大昔は海の底にあったという大きく固い岩盤がありました。
ですから郷夫という石工が「とい切り」という専門の工法を使ったにもかかわらず工事は難航しました。
1間(約1,81メートル)掘り進むと何本もノミが駄目になった、長さ156メートルに渡る水路を切り抜くことができました。
今でも吉田の切り抜きでは当時のノミ跡を見ることができます。
こうして水路は出来上がり、遠賀川の水を堀川へ引こうとしたのですが、唐戸(水門)が洪水の時の水圧に耐えられないものであったので決壊して、かえって被害が広がってしまいます。
藩では対策として、堀川工事の監督をしていた一田久作を備前国(岡山県)に行かせました。
久作は吉井川にある優れた唐戸を図面に写し取って帰国し立派な唐戸を造りました。
それが中間の唐戸です。
2重の扉を持つ頑丈なものでした。
久作はこの功績により堀川の通船料を管理する。「永代堀川受持庄屋役」に任命されました。
通船料は吉田の河守神社にかかる橋上から船にひしゃくを差し出して受け取ったということです。
堀川の完成は通船や灌漑で一帯に大きな利益をもたらしました。
しかし、さらに通水量を増やすために東井出と西井出という二つの堰を造ったために川上の村々は水はけの悪さに悩まされました。
このため二つの堰を取り除き、新しい水路と唐戸を上流部へ造る工事が行われました。
こうしてできあがったのが寿命の唐戸です。
この唐戸の完成で堀川は完全な姿になります。
1804(文化元)のことで、長政が堀川を計画してから実に180年あまりが過ぎていました。
この堀川の遺跡は、現在でもいたる所に見ることができます。