(5)万葉歌人山上憶良と嘉麻郡家

 

わが国で最も古い歌集である「万葉集」には、大伴旅人や山上憶良などが、太宰府で読んだ歌がたくさんのせられています。

遠賀川流域で「万葉集」に歌われている土地は、田川郡の香春(香春町)、遠賀郡の岡湊(芦屋町)、嘉麻郡の郡家(稲築町)の3ヶ所です。

田川郡の香春(香春町)と嘉麻郡の郡家(郡の役所)は遠賀川上流域を横切って、大宰府と豊前国府を結ぶ古代官道(小路)の田川道に沿っており、遠賀郡の岡湊は、遠賀川下流を横切る管道(大路)上にあります。

有名な万葉歌人である大伴旅人は、神亀年間(727~730年)大宰帥(長官)として九州にやってきました。

また、同じ頃、筑前国の国司として山上憶良も来ました。
当時、筑紫歌壇は中央の花壇をしのぐほどに盛況でした。

憶良は筑前国内を巡視のため、遠賀川上流域の嘉麻郡の郡家に来て、「感情を反さしむる歌」「子等を思う歌」「世間のとどまり難きを哀しめる歌」の三首の歌を728(神亀5)年7月21日に読みました。

その中で、「子等を思う歌」は大変有名です。

「瓜食めば 子供思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ いづくより来たりしものぞまなかいに もとなかかりて やすいしなさぬ」

歌の意味は、「瓜を食べると、この瓜を食べさせたらと先んず子供のことが思い出され 栗を食べると まして子供のことが思い出される。一体子供と言う者は、どう言う因縁で吾々の子となったのであろうか。こうして離れていると、やたらに眼の前に、その姿がちらちらして、夜も、ゆっくりとねられないものだ」と

しろがねも 黄金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

歌の意味は、「銀も黄金も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも

歌の意味は、「銀も黄金も玉も何になろうぞ、子供に優る宝が世にあろうか」で、子供を思う親の気持ちが素直に読まれています。

憶良の青年時代は不明ですが、702(大宝2)年には遣唐小録という書記の役職で遣唐使の一員として中国に渡っているので、身分は低かったけれども才能があった人物だったようです。

その後、下級官僚として朝廷に勤めていましたが、能力が認められ、晩年になってから筑前国の国司(現在の県知事)を約6年間務めました。

憶良はなぜ嘉麻郡の郡家に来たのでしょうか。

そのなぞが、最近、土の中から発掘された木簡からわかるようになりました。

木簡の研究によると、当時、遠賀川流域では特産物として「紫草」が栽培され、この流域には「紫草」国営で栽培する「紫草園」があったようです。

「紫草」は当時重要な染色の原料でした。

紫色は京都では高貴さを象徴するもので、当時の服の色は天皇は白、皇太子は黄丹、親王・三位以上の人は紫でした。

紫は上級貴族以上にしか許されない高貴な色だったのです。

そのため、種まき、手入れ、収穫の時には、国司は自ら従者とともに、現地に赴き「紫草園」で検査を行っていました。

特に手入れの時には厳しく、太宰府の役人まで同行し国司の任務の監督に当たりました。

それだけ紫草の栽培が太宰府にとっては重大なことでした

遠賀川流域の遠賀・嘉麻・穂波から税金として送られた木簡に「紫草」を記したものがあることから、この地域に「紫草園」がもうけられていたことがわかります。

憶良は「紫草園」の検分のために嘉麻郡にやってきて、その時にこの歌を作ったものと思われます。

さて、憶良の歌には人々に深い感動と豊かな人間味を与えるものが多く見られます。

中でも、憶良が筑紫在勤中に、奈良時代の律令制下の農民の生活よんだ「貧窮問答歌」は憶良の有名な歌のひとつで、当時の苦しい農民の生活の実態がひしひしと感じ取れます。