(1)大宰府の東部を守る古代山城

日本では中国の唐にならって、律令に基ずく新しい中央集権政治が整いつつあった斉明天皇の時代、朝鮮半島では660年に百済が新羅と唐の連合軍によって滅ぼされ、百済の遺臣たちによって復興のための戦いが続いていました。

663年(天智天皇2)年に日本は友好国の百済救援の軍隊を派遣しますが、朝鮮半島西岸の柏村江の海戦で唐・新羅の水軍に敗北し、日本軍は百済の亡命者をつれて引き上げました

 

この敗戦の結果、日本は唐・新羅に対する防衛体制の強化を余儀なくされ、664年にまず対馬、壱岐、筑紫に防人と烽を置くとともに、筑紫に水城を築き、翌665年には、大野、基いの2城を築造しました。

同時にそれまで那の津口にあった官家は内陸に移され、大宰府が成立しました。
水城、大野、基いの築城には百済から亡命した人々が深くかかわっています。

こうした情勢下で神籠石も築造されたと考えられますが、の築造にあたって、列石をともなう版築技術の土塁や水門施設など朝鮮半島からの技術や渡来人がかかわっていたと考えられます。

神籠石は北部九州、瀬戸内にかけて14ヶ所の遺跡が確認されており、今後さらに増える可能性があります。

古代の馬を飼育する牧場説、列石を神域の境界を示すものとする神域説、列石を城壁一部とする山城説がありました。

しかし、現代では、発掘調査の結果から列石は土塁の基礎石であることが明らかとなり、朝鮮半島の山城の影響を受けた7世紀前半頃の古代山城と考えられます。


鹿毛馬神籠石は頴田町大字鹿毛馬にあり、標高約80mの馬蹄形の低い丘陵の屋根の外側に、約70 ㎝ の花崗岩の切石を全長約2 km にわたってめぐらしています。

この切石は防衛のための土塁の基礎石です。

列石の前面で約3m 間隔に土塁を版築でつくるために柱を立てた穴が見つかっています。

西に開いた谷には暗渠を列石の下み通した水門が2ヶ所あります。

南側の暗渠の内側の築造当初の地山から、7世紀代と推定される須恵器大甕の胴部破片が発見され、築造年代を考える上で重要な資料になっています。

おそらく、遠賀川の河口から内陸部の嘉穂地方に侵入する敵を想定して築かれた山城と考えられます。