黒田長政が筑前国を与えられた江戸初期には遠賀川は、
いくつにも分かれ,曲がりくねった暴れ川だったのです。(図A参照)
この遠賀川は、直方で彦山川と合流しあたりから流れはますます緩やかになって芦屋で響灘に注ぎますが、西北の強い季節風による響灘の荒波が河口に打寄せて土砂の流出を妨げるため、河口付近には大きな洲ができ、上流からの土砂の硫下をさらに妨げて河床がだんだんあがっていくため、所々に中洲ができるという状態でした。
長政は鞍手郡南良津(小竹町)から河口までの大改修を計画しました。
新しく水路を掘り、堤を築き、川底も浚う浚う工事は寛永5年(1628)に完成しました。
二代藩主忠之の時で15年の歳月をかけたことになります。
この工事によって西川筋に流れ込んでいた遠賀川の本流は広渡と立屋敷の間のほぼ真っ直ぐな流れに改められたのです。
しかし、下流部は複雑な流路のままでした(図 B 参照)。
本流は古賀村で大きく東に曲がり、浅川村で分かれ芦屋湾と洞海湾に向けて注いでいます( B-①)
本流と猪熊村の間にも流れがあって芦屋湾に注いでいます(B-②)。
寛永5年に掘られた荒水吐という排水路があります(B-③)。
こうした状態では洪水のときの水はけが悪く、一帯の人々は大変悩まされていたのです。
立屋敷村の庄屋、入江喜太郎はこれを何とか解決したいと考えました。
古賀村のところで大土手を築いて本流を締め切ったうえで先ほどの荒水吐を本流にしようとするものでした。
この計画の請願を受けた群代・中山甚六は厳しく覚悟のほどをただしました。
これに対し喜太郎は「甚六様に御難儀成りそうらえば、恐れながら一命差し上ぐべく申し上げそうろう」と答えています。
失敗して代官様に迷惑がかかるようなら命を差し上げます、というのです。
この喜太郎の命を賭けた大工事は大成功に終わります。
1744(延享元)年のことで、この工事は「延享の治水」と呼ばれました。
また、喜太郎の築いた土手は鬼太郎土手とか首土手とか呼ばれたということです。
こうして遠賀川はほぼ現在の流路に近いかたちになったのです(図C参照)。
しかし、大規模工事とはいいながらも、もっぱら人海戦術によるもので、現在のようなコンクリートなど無いため、その後「1828(文政11)年、1840(天保11)年、1847(弘化4)年、1850(嘉永3)年」(鞍手郡誌)洪水によって毎回堤防が決壊し、田畑、家屋、人畜に大きな被害を及ぼしました。
その復旧には周りの郡村から人が集められました。