6世紀の中頃以降になると、地域の首長層だけではなく、社会的地位がそれほど高くない人まで古墳を造るようになります。
直径10m内外の小規模な円墳や横穴が数十基ほど群集してつくられます。
日本列島に古墳は15万基以上あるといわれていますが、その中の約99%は6世紀後半の後期古墳なのです。
この時期には5世紀代に、朝鮮半島からの影響を受けて北部九州に出現した、横穴式石室が普及します。
この埋葬施設は外界に通じる出入口をもち、死者の追葬も可能でした。
副葬品は大量の土器・武器・甲冑・馬具などから、生活用具としての実用品が目につきます。
どうも古墳を死後の生活の場と考えていたようです。
4,5世紀に比べて6世紀には、他界観念の上でも大きな変化が認められます。
遠賀川上流域の嘉穂盆地では、旧穂波郡域に桂川町王塚古墳・天神山古墳を中核に円墳群と横穴群からなる桂川古墳群が形成され、また、旧嘉麻郡域には飯塚市宮脇古墳・寺山古墳・川島装飾古墳などを中心に前方後円墳と円墳群及び横穴群からなる川島古墳群が造られました。
こうした前方後円墳を中核とした古墳群が造られた歴史的背景として『日本書紀』に見える535(安閑天皇2)年の鎌・穂波屯倉の設置とともに、ヤマトの王権との連帯の下に、急成長した2つの有力豪族の出現が考えられます。
ヤマト王権は5世紀から6世紀にかけて、屯倉設置の政策を全国的にすすめて、それまでの国造を介しての間接支配体制を切り替えて、直接的な全国支配体制を創り出そうとしていました。
その一環として、この嘉穂地方にも鎌・穂波の二の屯倉が置かれました。
安閑天皇2年をわずかにさかのぼる528(継体天皇22)年に、筑紫国造磐井は新羅と通じて、ヤマト王権の朝鮮半島政策を妨げようとして反乱を起こしました。
これはヤマト王権をふるえあがらせた大乱でした。
ちなみに、筑紫国造磐井の墓は、北部九州最大の前方後円墳である八女市岩戸山古墳といわれています。
この乱後、磐井の子、筑紫君葛子は父の罪を恐れて、糟屋の屯倉を献上して死罪をまぬがれたと『日本書紀』は記しています。
鎌・穂波屯倉が置かれたのはこの事件が終った直後のことです。
旧嘉麻・穂波郡域は、元は磐井の支配下に入っていたと思われますが、乱後、突如として屯倉が設置されたことは、この地方がヤマト王権の九州支配において、重要な地域であったためだと考えられます。
同時に設置された富国の5屯倉と、先に摂取した糟屋屯倉の配置の背景には、北部九州の沿岸を確保するために、北上する筑紫君の勢力をさえぎろうとするヤマト王権の戦略的な意図がうかがえます。
桂川地方は遠賀川の最上流域に位置し、冷水峠や米山峠をつうじて筑後地方や肥後地方と結ぶ戦略上の重要拠点だったと考えられます。
王塚古墳石室内の石棚や石屋形などの特異な内部構造や豪華な装飾壁画からも、築後・肥後地方の古墳との深い係わりが認められます。
川島の土地は、豊国と筑紫国の内陸部を東西に横断する陸路と、嘉穂盆地と遠賀川河口の港を結ぶ水陸交通の交差点に当たり、きわめて重要な交通の要衝でした。
この地の管理・運営権を掌握していたのが、川島古墳群を築いた集団だったと推定されます。
一方、田川地方には、6世紀末に田川市夏吉古墳群に巨大な横穴式石室を持つ円墳がみられ、6世紀末から7世紀初頭には、巨石時代を用いた長大な横穴石室をもつ方城町伊方古墳が出現します。
田川市夏吉から方城町にかけて、有力者がいたことがあります。
中流域では、鞍手町新延大塚古墳には巨大な横穴式石室があり、金銅製の馬具などが発見されています。
また、同町の銀冠塚古墳からは珍しい銀冠が発見されています 。
この銀冠は厚さ約1mm、幅約2㎝、長さ28㎝の透彫結紐文の帯状の冠台の真中に、宝珠と花文をいたただき、内部に忍冬唐草文の透彫を有する二等辺三角形の前立をつけたものです。
総高15.7㎝の、頭を一周せず、前額だけを飾る形式です。
この冠に最も近いものは、法隆寺釈迦三尊像脇侍623(推古31)年をはじめ法隆寺関係の諸尊の天冠に求められます。
また、宗像郡の宮地嶽神社奥の院古墳出土の冠に見られる透彫による珠文手法が類似しています。
この冠は中国六朝後期に作られた冠帽が遠く日本にもたらされたものと推定されます。鞍手町付近にも郊外交易を行うような有力豪族がいたことがわかります。