天神橋貝塚は犬鳴川が遠賀川に合流するところにあり、シジミ・カキ・アカガイに混じって、縄文土器や磨製石斧・貝輪・垂飾・ヘアピン・黒曜石・植物種子が発見されました。
光田貝塚は直方市植木にあり、シジミを主として、カキ・ハマグリ・アカガイのほか、イノシシの顎の骨と牙などが発見されています。
楠橋貝塚は北九州市八幡西区にあり、当時、古遠賀湾の東側にあたります。
この貝塚については、黒田藩の儒学者、貝原益軒が『筑前国続風土記』に「楠橋の西南に貝殻塚があり、約100m四方の低い岡で、全て貝殻である」と記しており、江戸時代から有名な場所だったようです。
ヤマトシジミとともに縄文土器も発見されています。
寿命貝塚は 楠橋貝塚の西方360mの地点にあり、石で囲った炉跡を中心に7本の柱がある円形の住居跡が発見されています。
約4000年前の縄文土器とサルボウ・ハマグリ・マガキ・マシジミが発見されています。
新延貝塚は鞍手町新延にあり、当時、古遠賀湾の西側の最も奥にあたります。
約7000年から約3000年前の長い期間にわたってできた貝塚で、ヤマトシジミが最も多く、マガキがそれにつぎます。
シカ・イノシシの骨が多く、クロダイ・スズキなど湾内にすむ魚も多く、そういった魚をとるための骨性の小型ヤス、釣針、石銛などが発見されています。
木月貝塚は鞍手町木月字貝殻にあり、新延貝塚より北へ2kmほどのところです。
『筑前国続風土記』に 「下木月村から分かれた村に、蛤殻の畑があり、地底を掘れば蛤殻多く出るので、その名前とした」記されています。
土器とともに、ヤマトシジミを主体にマガキ・ハマグリなどがあります。貝層からは男性人骨が発見されています。
こうした古遠賀湾の奥にある貝塚のある場所は、貝の種類から約5000年前には海水に真水が混ざり合うところであったことがわかります。
一方、山鹿貝塚は芦屋町大字山鹿にあり、当時、古遠賀湾の河口と響灘の両方に面した砂丘上にあります。約6000年前から約3000年前の土器が発見されています。
約6000年前にはハマグリとイソシジミが多く、約5000年前にはマガキとオキシジミが増加し、約4000年前にはマガキが主体をなしています。
このことから、貝塚の南側の、古遠賀湾側の小さな湾が少しずつ陸地になっていく様子が分かります。
石鏃、石銛、骨銛、釣針、石錘、叩き石、摩石などの石器も多く発見されています。
とくに 男性8体、女性7体、乳幼児3体、合計18体、乳児から熟年(40~60歳)までの共同墓地が発見されました。
2号成人女性はサメ刃耳飾り2点、 蛇紋岩製鰹節型大珠1点、 鹿角製叉状垂飾品1点、貝輪19点など珍しい装身具を身につけていました。
また、この女性の傍には簪2点、貝輪26点をつけた成人女性がともに強い屈葬(足を強く曲げた姿)で埋められ、両者の間には乳児が伸展葬(足を伸ばした姿)で置かれていました。
夏井ヶ浜貝塚は山鹿貝塚の約500m東北の位置にあり、縄文時代の終わりの頃の貝塚ですか、ここからは珍しいアワビ貝製の貝庖丁(イネの穂摘み具)が発見されています。
黒崎貝塚は北九州市八幡西区の黒崎駅付近にあり、古洞海湾に面した貝塚です。ここからは約4000年前の縄文土器とともにマガキ・イボウミニナが多く発見されています。
柳原貝塚は同区本城東にあり、永犬丸貝塚は同区の奥にあります。