西谷 正氏 監修・九州大学名誉教授
福岡県の北部を流れる遠賀川は、嘉穂郡嘉穂町に属する馬見山に源を発っし、穂波川・彦山川・犬鳴川など中・小70余りもの支流を集めておよそ60 キロ、
遠賀郡芦屋町の河口で響灘に注いでいます。
話は少し大きくなりますが、エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の世界の四大文明は、それぞれナイル川、ティグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河の流域で発生し、古代文明の花を咲かせました。
最近では、中国の長江や北朝鮮の大同江の流域にも、それぞれ独自の古代文明なり文化が展開したという問題提起も見られます。
それらに比べるまでもないとしても、原始・古代の大昔から、ここ100年余りの近・金現代にいたるまで、遠賀川流域に開花した文化は、どのようなものであったでしょうか。
果たして、「遠賀川文化」は存在したのでしょうか。
原始・邪馬台国の時代に、不弥国を飯塚・嘉穂地方に比定する説もあります。
古代には、わが国でも代表的な装飾古墳が築かれ、また、仏教文化もいち早く浸透しました。
古代末から中世では、貴族や大きな寺社の庄園が営まれました。
芦屋津は、年貢米の集積地として、また、対外貿易の拠点港として栄えました。
近世に入ると、遠賀川下流域を洪水の被害から守るため、堀川を開削して、遠賀川の水の半分を洞海湾に流すという、大規模な治水工事が行われました。近代では、筑豊炭田の石炭エネルギーが日本の近代化に大きく寄与しました。
そのころ、石炭を運ぶ川舟が遠賀川を行き交いました。そして、現代の遠賀川流域では、弥生時代いらいの農業を基幹産業とし、一部で工業化を果たす一方、豊かな自然に恵まれ、文化的な生活を享受しようと努力されています。
遠賀川が果たしてきた歴史的・地理的条件に照らして、汚れた遠賀川の環境保全・河川整備に対する取り組みが始まっています。
遠賀川を大切にし、再生させることで、人の心を豊かにし、住み心地のよい地域づくりに役立たせてほしいものです。
ところで、国際日本文化研究センターの川勝平太教授は、一昨年、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界文化遺産に登録されたことに寄せて、ヨーロッパにおける線としての「道」に対して、日本が世界に誇れる線の文化遺産に「川」があることを強調されたことがあります。
日本の「川」は、たとえば舟運を通して山と海の幸がそれぞれ交換され、また、河口に港町が生まれて、流域に繁栄をもたらしたのです。
このことは、まさに遠賀川についてもいえることです。
市町村合併が盛んな昨今ですが、そのような地方自治体の枠を越え連携して、遠賀川の再生に取り組んでいただきたいと思います。そのためにも、『もっと知りたい遠賀川』と題した本書をご活用いただき、そして、そのことを通じて、郷土に対する誇りを持っていただければ幸甚です。