(9)遠賀川弥生文化のたそがれ

遠賀川弥生文化のたそがれ弥生時代中期に、石包丁の独占的な生産とともに、中国前漢の銅鏡10面を所持し繫栄していた立岩遺跡以後、古墳時代までの歴史の展開を物語る資料として後漢鏡があります。

後漢鏡は古代中国の後漢時代に作られた銅鏡ですが、わが国と後漢との交流の中でもたらされたものです。

次に、権威の最高シンボルである中国鏡を手掛かりに遠賀川流域の歴史の展開を探ってみましょう。
この時期に遠賀川流域では後漢鏡が14面発見されています。

遠賀川上流の旧嘉麻郡6面、旧穂波郡1面、旧田川郡5面、中流の鞍手郡2面があります。
前漢鏡は10面が飯塚市立岩遺跡に集中していますが、後漢鏡は立岩遺跡の周辺部から1~2面と分散して発見されています。

これは弥生時代中期の立岩一極集中の政治体制が崩れて、遠賀川上・中流域の各地に新しい有力集団が弥生時代後期を通じて現れたことを示しています。

なぜ、このような変化が見られるのでしょうか。今のところ、弥生時代に鉄器が普及し、生産工具が右から鉄へと切り替わり、その過程で立岩遺跡の経済基盤を支えた石庖丁の生産が衰退したためだと説明されています。

現在のところ、立岩遺跡から後漢鏡が1面も発見されていないことが、この仮説を補強しています。

しかしながら、この変化は北部九州一帯で見られる現象であり、簡単にはいいきれないところもあります。