弥生時代の前期の終わりの頃で、今から約2100年前になって、イネの栽培が関東平野まで及んだ頃、遠賀川流域に大陸から新しい文化の波が押し寄せました。
銅と錫の合金である青銅でつくられた剣、戈、矛と鏡に代表される文化です。剣は人を刺す武器、戈は柄とほぼ直角に取り付け、首のところを切ったり、馬や戦車に乗っている人を引っ掛けて落とす武器、矛は槍のように人を突き刺す武器です。
また、この頃、朝鮮半島の南部に見られる土器(無文土器)も各地で発見されています。
この青銅器文化の源流は、中国東北文化の遼寧省にあって、約2600年前に琵琶形の銅剣があらわれ、銅斧や銅刀子、粗い文様のある細文鏡が使用されました。
このような銅剣文化は朝鮮半島にひろがり、やがて銅剣の身がやや細くなり、刃部の突出もゆるくなって細形銅剣に発展しました。また、細文鏡の文様は精緻なものに変わっていきました。
また、鉄は中国の歴史書『魏志』東夷伝・弁辰条によると、「国、鉄を産し、韓・濊・倭、皆従ってこれを取る。諸市買うに皆鉄を用う」という記述があり、朝鮮半島南部の弁韓・辰韓では鉄が生産されており、倭人にとっては大切な輸入品でした。
当時、鉄は日本列島で生産されておらず、ほぼすべてを朝鮮半島南部からもたらされていました。
弥生時代から古墳時代の半ば頃までの鉄製品の中に多数、中国や朝鮮半島産の鉄器や鉄素材が含まれており、日本列島ではそれらをもとに鍛冶工房で加工した鉄製品が多数発見されています。
こうした朝鮮半島の起源をもつ初期の青銅器や鉄製品は、遠賀川流域でも発見されています。
田川郡添田町庄原遺跡からは朝鮮半島の無文土器時代の終わりの頃のものが発見されています。
また、青銅の鉋(かんな)の鋳型(青銅を流し入れて製品をつくる型)や鉄を加工する時にでる鉄滓(くず・かす)や鍛冶炉跡が発見されています。
英彦山北麓の山奥ですが、朝鮮半島からの渡来人とかかわりの深い青銅器の生産や鉄を加工した遺跡と考えられます。
その後、前漢王朝7代皇帝の武帝のとき、紀元前108年に朝鮮半島の西北部、現在のピョンヤン付近に朝鮮半島を支配するために、楽浪郡が設置されると、第三の新たな波として楽浪郡を経由して、前漢の銅鏡とガラスや絹をつくる技術など中国の高い文化が遠賀川流域に及んできます。
飯塚市立岩遺跡では、これ以前からイネの穂摘み具である石庖丁を大量に生産し、北部九州一円の村々との交易活動で多くの富を蓄えていたため、この新しい文化や技術をいち早く取り入れました。
そのため、立岩遺跡の甕棺の中からは前漢鏡10面、多くの鉄製武器、絹で包まれた鉄剣・鉄矛など中国前漢の文物が多数発見されています。
また、南方の沖縄地方に生息するゴホウラ貝やイモ貝で作った高価な貝の腕輪も、交易により手に入れていました。
立岩遺跡では鉄製の武器が多量に発見されていますので、石庖丁の交易活動で得た商業圏を生かして、鉄製品を西から東へ運ぶ交易活動を目指していた可能性もあります。
立岩焼ノ正遺跡から発見された鉄の素材は鉄の鍛冶加工が行われていたことを証明しています。