(3)古遠賀湾の陸地化と稲作文化のはじまり

弥生時代になると気候がだんだん寒冷になりました。さらに遠賀川による土砂の堆積作用によって、徐々に「古遠賀湾」に狭められ陸地化が進みました。

弥生時代の貝塚は、縄文時代に比べて、ずっと河口に近づいて作られています。

遠賀郡遠賀町大字老良の老良貝塚・妙雲寺貝塚、水巻町大字二の上二貝塚・宮ノ下貝塚、中間市大字岩瀬の岩瀬貝塚などの位置から推定して、現在の遠賀川の河口から約8kmあたりまでに海岸線は後退しています。

つまり縄文時代最大の古遠賀湾の半分以上が陸地になったと考えられます。

遠賀川流域では、唐津市菜畑遺跡、福岡市板付遺跡で見るような、初期の水田跡はまだ発見されていません。

しかし、縄文時代の終わりの頃の土器(黒川式土器)に、モミ跡がスタンプとして残っている土器が嘉穂町才木遺跡で発見されています。

その後に現れる突帯文土器(山ノ手式・夜臼式土器)と呼ばれる、米作りを始めた頃の土器は、遠賀郡芦屋町、同岡垣町、北九州市、中間市、鞍手郡鞍手町、直方市、鞍手郡小竹町、田川郡赤村、同川崎町、飯塚市、嘉穂郡穂波町、同嘉穂町など遠賀川流域の各地で発見されています。

こうした遺跡は遠賀川の沖積作用で川底に水没しており、遠賀川沿いの砂丘の背後の湿地や浅い谷の湿地を水田として初期の米作りが行われていくことが想像されます。

これに続く、最初の弥生土器(板付Ⅰ式土器)は中間市、直方市、小竹町、飯塚市、嘉穂郡稲築町、同穂波町で発見されていますが、明確な遺跡は飯塚市の東菰田遺跡です。

この土器も同様に遠賀川の川底から多く発見されています。

遠賀川下流の河口に近い、中間市砂山遺跡からは擦切りで穴をあけた石庖丁が、また、芦屋町夏井ヶ浜貝塚からはアワビの貝庖丁が見つかっています。

また、中間市垣生、同猿喰、同御館山からは朝鮮半島でつくられたと考えられる青銅の剣をまねた有柄式磨製石剣が、同垣生、同猿喰からは有茎式磨製石鏃も同時に発見されています。

発見された状況は不明ですが、二つが組み合わされて発見されていますので、稲作を伝えた人の墓に納めた副葬品と考えられます。

同様な有柄式磨製石剣は、遠賀川上流の飯塚市鶴三緒の遠賀川の川底や、田川郡糸田町内からも発見されています。

また、飯塚市川島の遠賀川の川底からは、青銅の剣を忠実に模倣した有桶式磨製石剣が発見されています。

こうした珍しい形をした擦切り孔の石庖丁や、有柄式磨製石剣、有桶式磨製石剣、有茎式磨製石鏃は、似たものが朝鮮半島の南部に多く存在しますので、米作りが朝鮮半島から遠賀川流域にいち早く伝えられていたことを物語っています。