遠賀川流域に、いつごろから人が住み始めたのでしょうか。 遠賀川流域に広く分布する石炭は、今から約6000万~2500万年前の第三記という時代につくられました。
当時は、湖や湿地の多い土地が広がっていました。メタセコイアという木がそのくぼ地に倒れて、積み上げられ、その後、深く埋もれて筑豊の石炭ができました
。
約200万年前に始まる第四紀という時代は、 更新世(洪積世)と完新世(沖積世)という時代があり、更新世は、気候が大変寒くて、乾燥した4回の氷河の時代と、その間に、気候の暖かい時代が、くり返されました。
約2万年前の、最後のゥ”ュルム氷河の時代には、現在よりも気温が年平均で7~8度℃低くなり、海の水面は現在よりも、140m前後も低くなったようです。
遠賀川には、現在の東北地方に分布している、ブナやナラなどの落葉広葉樹の林が広がっていたようです。
海峡は陸士となり、日本列島は、北と西で、大陸と陸続きになっていたことになります。
ただ、響灘の北にある対馬海峡が、完全に陸地になっていたのか、あるいは 、海峡が大変狭くなっていたのか、研究者の意見が分かれています。
このころ、私たちの先祖は現在絶滅した 、ナウマンゾウ、オオツノジカ、ヤギュウなどの中国大陸の北にいた動物たちと、いっしょに遠賀川流域にもやってきたと考えられます。
この時代は、土器がまだ使用されておらず、 打ち欠いた石器を主に用いていたので、旧石器時代あるいは、先土器時代と呼ばれてます。
北九州市八幡西区辻田遺跡では、古い地層から、動物を解体したり、皮をはいだりする時に用いた、古い石器である切り出しナイフが見つかっています。
このほか、同市内では、槍先に用いたナイフ形石器などが発見されています。 この石器の年代は南九州の火山灰の研究から約2万5000年前のものと考えられています。
また、同市若松区の椎木山遺跡では2軒の家の跡が見つかり、約2万年前の住居跡として、話題を呼びました。
同市八幡西区の紅梅A遺跡、同茶屋遺跡、遠賀郡岡垣町のとう塚遺跡と友田遺跡、同郡遠賀町の天神遺跡、同郡水巻町の苗代谷遺跡、鞍手郡若宮町(現宮若市)の汐井掛遺跡など
低い丘の上では、切り出しナイフやナイフ型石器が発見されています。
上流域では、田川市の寺の上遺跡や、同市猫迫1号墳付近からナイフ形石器が、そして香春町の ゆむ読む体積では砕石人が発見されています。
これは長さ3㎝、幅5〜6mmの縦長の破片で骨や木の柄にはめ込んでやりとして用いました。
飯塚市の立岩遺跡では刃先だけを磨いた 石斧が発見されています。