聖徳太子の遣隋使の派遣、十七条の憲法、冠位十二階の制定、さらに7世紀中頃の大化の改新や戸籍の作成を通じて中央集権的体制は固まり、大宝律令の施行と平城京建設によって8世紀初めに古代国家が完成しました。
九州には太宰府が置かれ九国三島を統治し、遠賀川流域には、筑前国遠賀・鞍手・穂波・嘉麻郡の4郡と豊前国田川郡1郡計 5郡が置かれました。
また、平城京と太宰府を結ぶ駅路が整備されますが、太宰府から海岸線を通って到津に至る駅路(大路)上には、遠賀川の河口近くに嶋門駅と夜久駅が置かれ、太宰府から山間部を豊前国府に至る駅路(小路)上には、穂波郡伏見駅、嘉麻郡綱別駅と田川郡田河駅が設けられました。
木簡は土の中から掘り出された小さな木片で、墨で文字が書かれています。
木簡は、役人たちが日常業務のために作ったさまざまな文書や記録に使用されました。
そのため文献資料が少ない古代史の研究においては大変重要な歴史資料です。
太宰府から1200点あまりの木簡が発見されています。
その中に岡郡・岡賀(遠賀郡)や加麻郡(嘉麻郡)から大宰府に納められた税金の付札の上端に二ケ所の切り込みがありますが、これは付札をひもで荷物にくくりつけるための工夫です。
最近、韓国でも同様な札札が見つかっており、こうした役所の日常業務における工夫も、律令制度とともに中国や朝鮮半島から伝わった可能性があります。
奈良時代から平安時代にかけて、九州の税金は太宰府にいったん納められた上で、太宰府の財源に使われるものと、京都に送られるものとに分けられました。
「紫草」はその根が染料として、税金として太宰府や都へ運ばれました。
税金の付け札として用いられた木簡には、遠賀郡の表記は「岡郡」から「岡賀郡」、さらに、遠賀郡へ、また、「加麻郡」から「嘉麻郡」へ表記が変化しています。
当時、遠賀川流域では特産物として、「紫草」が栽培されていたことがわかります。