(1)遠賀川流域に進出してきたヤマトの勢力

4世紀に、東北地方南部から九州に至るまで広大な地域に、前方後円墳を外形とし、長さ数メートルにも及ぶ割竹型木棺の埋葬施設、三角縁神獣鏡を主体に豊富な副葬品を持つ古墳が出現します。

この墓の形は3世紀後半頃に大和盆地東南部の三輪山麓で新しく造られたと推定されています。

今まで各地で異なっていた墓の形が急に同じ形になったのは、同じ形の祖先の祭りをおこなうという取り決めが、ヤマトの王と各地の王との間にできあがった結果だと説明することができます。

つまり、ヤマトの王と各地の王との間で同じ祖先から分かれた同じ種族という関係ができたと考えられます。その証拠として配布されたのが三角縁神獣鏡だともいわれています。

これは古墳という墓つくりを通じて、ヤマトの王を中心に全国的規模の政治的連携のネットワークができあがったことを意味しています。

すなわち、ヤマトの王を頂点に全国的規模で結ばれた王の連合が成立したということでしょう。こうした政治的な背景によって出現したのが古墳といえます。

遠賀川の上流域では、飯塚市辻古墳は4世紀前半頃に築造された径約30mの円墳です。
埋葬施設は長さ5.3mの割竹形木棺で、内部から盤龍鏡、鉄剣、鉄刀、鉄しが発見されました。

これに続いて4世紀中頃に築造された穂波町忠隈古墳は径約40m、高さ5mの円墳です。

長さ4.4m、幅0.8mの小口積みの竪穴式石室があり、埋葬施設は割竹形木棺と考えられています。

三角縁三神三獣鏡、獣形鏡、玉類、四葉座金具が発見され、墳丘の上からは嘉穂盆地全体を眺めることができます。

これに後続する稲築町沖出古墳は4世紀後半頃に築造された全長約70mの前方後円墳です。

後円部に長さ3.7m、幅1.4mの竪穴式石室があり、埋葬施設は割竹形石棺で、内部から鍬形石、石釧、車輪石が発見されました。

この3種類の石製腕飾りが組合わせで見つかったのは九州で唯一です。

なお、やや規模の小さな墓として、上流域では嘉穂地方に飯塚市赤坂1号墳、嘉穂町西ヶサコ古墳、田川地方に方城迫古墳などがあり、割竹形木棺を納めた粘土槨を埋葬施設とした円墳です。

穂波町日上古墳は埋葬施設に敷石がある特異な構造です。

一方、遠賀川下流域には遠賀町津丸山古墳があり、埋葬施設は不明ですが、全長約57mの前方後円墳で、今のところ、4世紀前半頃の築造と推定され、遠賀川流域では最古級の前方後円墳と考えられます。

これに続く、同町豊前坊3号墳は全長約32mの前方後円墳で埋葬施設は箱式石棺で、4世紀中頃の構造と推定されます。

これに隣接する豊前坊1号墳は全長約74mの下流域最大の前方後円墳ですが、埋葬施設は不明です。4世紀前半頃の築造と推定されます。

『日本書紀』には、仲哀天皇の九州遠征の時、崗県主(遠賀郡にいた豪族)の祖熊鰐は周防(山口県南部)で船を乗り出し、海上に出て船の舳に賢木をたて、その枝に鏡・玉・剣をかかげて降伏の意を表して、天皇を出迎えたと記されています。

これは地方にいる族長の統治シンボルである宝器を差し出す儀礼で、地方の族長を天皇が征服していく物語です。

遠賀川下流域の上記の前方後円墳はヤマト王権に対して早く服属した崗県主一族の墓地かもしれません。

遠賀川流域では4世紀のはじめには、遠賀川の河口付近と上流の嘉穂盆地に豪族の系譜がたどれ、ヤマト王権の進出が認められます。