(6)須恵器の生産と箆書須恵器

古墳時代の器に土師器と須恵器があります。土師器は弥生土器の系統を引く焼き物で、弥生土器に比べてほとんど文様がなく、地域的な特色がありません。

須恵器は青灰色の硬い土器で、その源流は朝鮮半島の陶質土器にあります。

ロクロのような回転台を使用しタタキ技法で成形するという製作技法や丘陵の斜面に作った登窯で焼き上げるという焼成技法などは、渡来人によってわが国に伝えられました。

日本の須恵器の源流は朝鮮半島南部の加耶あるいは西南部にある百済の陶質土器であろうと考えられています。



遠賀川流域では陶質土器や初期須恵器は田川市猫迫1号墳、同セスノド古墳、田川郡香春町五徳畑田遺跡、嘉穂郡筑穂町木の下遺跡など上流域で発見されていますが、まだ、下流域からは確認されていません。

須恵器は近畿地方の大阪府南部などや、九州では筑前など甘木・朝倉地方で5世紀末から6世紀には須恵器生産は全国的に広がりました。

遠賀川流域では下流域の岡垣町野間窯跡、中流域の鞍手町古門窯跡、上流域の飯塚市井手ヶ浦窯跡で6世紀後半から須恵器の生産が始まりました。

須恵器の生産が全国に拡大すると、6世紀末から7世紀末前半にかけて、特定の地方にしか見られない器形が現れたり、ある地方にだけ固有の技法が生まれたりして地方色が明瞭になります。



北部九州では朝鮮半島に近いという土地柄から、外来の要素をもつ須恵器がいくつか認められますが、その一つが有蓋三足壺です。

この土器は釣鐘状の蓋を伴う短頚壺に、長い三脚を付けた珍しい器形です。

北部九州に分布の中心があります。

朝鮮半島からの直接的な影響によって製作されたものであろうと推定されています。現在、全国で30例あまりが知られています。


遠賀川流域では飯塚市井手ヶ浦窯跡、同伊川古墳、直方市感田古墳から発見されています。

6世紀後半頃に福岡平野の玄界灘沿岸に出現し6世紀末には北部九州とやや遅れて中部地方内陸部の岐阜・愛知県で生産されました。

古墳や横穴墓の副葬品として使用されたようです。

三足壺を副葬した人々は朝鮮半島との間に系譜的係わりを持つ氏族・個人であり、あるいは、海上交通あるいは内陸交通において特定の重要な役割を担っていた氏族・個人との係わりの深い人々であったと推定されます。

三足壺を生産した人々は6世紀後半から7世紀前半にかけて朝鮮半島から、漢字を使用する人々や砂鉄精錬集団とともに、新たに渡来した須恵器工人集団であった可能性もあります。

 一方、7世紀の須恵器の中には、焼成前に箆状または釘状の用具で文字などを書いたものがあり、箆書土器または刻書土器と呼ばれています。

 箆書は運筆、筆順を知ることができるため、文字の習熟程度を知る手がかりとなります。

また、筆者が須恵器工人であるため、古墳時代末期もしくは飛鳥・白鷗時代の庶民階層の識字率や文字使用普及状況を明らかにする上で重要な資料と考えられています。

文字を箆書した須恵器は田川・嘉穂・鞍手地方の7世紀前半代の小型円墳や横穴墓から集中し発見されています。



こうした箆書須恵器は筑前・豊前地方に築新君磐井の乱後に設置された屯倉、渡来系氏族とのかかわりの深い新羅系の古瓦を出土する古代寺院や、後世の大宰府から伏見、綱別、香春をへて豊前国府、さらに豊前宇佐にいたる古代官道筋に沿って発見されています。

このことから文字を箆書した人物は古代の文献に見える秦・吉志系などの渡来系氏族と出自を同じくする人々であった可能性もあります。