(4)川底から発見される遺跡


面白いことに、中間市の垣生遺跡、直方市の天神橋遺跡、飯塚市の目尾遺跡・鯰田遺跡・川島殿ヶ浦遺跡では遠賀川の川底から土器や石器が発見され、人々が生活をした跡だと考えられています。

どうして、川底から遺跡が発見されるのでしょうか。

鯰田遺跡から発見された約6000年前の曽畑式土器は朝鮮半島の櫛目文土器と関係が深く、対馬海峡を挟んで朝鮮半島南部と遠賀川流域との交流があったことを物語っています。

川島殿ヶ浦遺跡からは約4000年前に瀬戸内海方面の土器の影響を受けた土器が見られ、九州の縄文文化と瀬戸内海地方の縄文文化が交流する様子が分かります。

こうした川底の遺跡は水面から約6~7m地点から土器や石器が発見されています。

これらは摩れたり角が取れたりしていないので、上流から流れてきたものではなく、本来、川の近くの自然堤防上にあった遺跡が、遠賀川の上流から運ばれてきた土砂の堆積により川底深く埋もれたものと考えられます。

縄文時代の生活面は現在の水田面から 約6~7m低かったものと推定されます。遠賀川は深い谷の底を流れていたことになり、平野も現在より狭かったと思われます。